明治時代、 観世 銕之丞 ( かんぜ てつのじょう ) 家から分家した 観世 清之 ( かんぜ きよし ) が中心となって、門弟を育て、門となしたのが始まり。
現在は三世 観世 喜之 (かんぜ よしゆき ) を当主とし、通称、観世喜之家、矢来観世家、として親しまれ、矢来能楽堂では毎月第二日曜に定例公演を開催。
観世九皐会(観世喜之家)と矢来能楽堂の略年譜
- 1849年(嘉永2年)
- 四世観世銕之丞清済(如雪)の二男源次郎(後の観世清之)誕生。
- 1865年(慶応元年)
- 源次郎、梅若六郎の養子となる。
- 1872年(明治5年)
- 源次郎、五三世梅若六郎を襲名。
- 1895年(明治28年)
- 六郎、観世銕之丞家へ復籍。観世清之と改名。
- 1905年(明治38年)
- 清之、義弟である服部喜多(永島喜多)を養嗣子とする
- 1908年(明治41年)
- 清之、家督を服部喜多に譲る。服部喜多は観世喜之と改名。
- 1909年(明治42年)
- 清之没。(享年61)
- 1911年(明治44年)
- 神田西小川町に観世喜之家舞台落成。
- 1923年(大正12年)
- 関東大震災により西小川町舞台焼失。
- 1924年(大正13年)
- 目白の観世喜之邸内に舞台竣工、舞台披き。
- 1925年(大正14年)
- 永島武雄、観世喜之の嗣子となり、観世武雄と改名。
- 1930年(昭和5年)
- 牛込矢来町に観世九皐会能楽堂落成。
- 1940年(昭和15年)
- 初代観世喜之没。(享年56)
- 1941年(昭和16年)
- 観世武雄は観世喜之を襲名。養嗣子敬祐は武雄と改名。
- 1945年(昭和20年)
- 空襲により観世九皐会能楽堂焼失。
同年、空襲により、東京では厩橋梅若舞台、西町銕之丞家舞台、富士見町細川舞台、水道橋宝生舞台、大曲観世能楽堂、高輪万三郎舞台、赤坂橋岡舞台、四谷喜多舞台焼失。 - 1952年(昭和27年)
- 観世九皐会能楽堂を再建し落成、矢来能楽堂と改称。舞台披き。
- 1977年(昭和52年)
- 二世観世喜之没。(享年75) 矢来能楽堂にて九皐会葬。
- 1981年(昭和56年)
- 観世武雄、観世喜之を襲名。(当代)
- 2002年(平成14年)
- 舞台再建五十周年を迎える。3日間の日賀寿能(ひかずのう)を開催。
「観世九皐会の歩み」を発刊。明治期の九皐会創設以降の能楽界史にも触れ、資料的価値も高い。